合掌造り †富山県南砺市(旧平村)田向、国指定重要文化財 羽馬家 現存する中では最古(築250年以上)の部類(近くの重文村上家は400年と言っているが定かではない)。現役の民家。 注:リンクの内、Flickr(写真)以外は外部のページです。 概要 †参考:wikipedia合掌造り 白川郷・五箇山の合掌造りの特徴としては以下の条件が考えられる。
合掌材(屋根材)メインで屋根を支える構造は白川郷・五箇山以外にも全国的に分布していて、「合掌構造」自体は特殊な物でもない。合掌ではない屋根の構造としては「和小屋」などがありこれは屋根材をいくつかの柱で支えたりする構造である。 基本的に白川郷・五箇山では切妻屋根である。五箇山の合掌造には入母屋風のものがあるがこれは妻側には屋根材はないのであくまでも入母屋「風」である(上の羽馬家参照)。また、白川郷・五箇山の境界に当たる岐阜県荘川では入母屋造り(例:三渓園 矢篦原家)、富山県山田・八尾では寄合掌(寄棟造)(例:富山市民俗民芸村 谷浦家)と切妻合掌とが入り交じっていた。「切妻でなければ合掌造ではない」とする文献もある(合掌とは本来は屋根のかけかたをいうのであるが)。切妻の優位な点はアマのスペースを多く取ることができることである。妻面には屋根材が無く、棟方向の力には弱くなるのでスジカイを入れるなどの工夫が必要となる(なので妻側にも屋根材がありどの方向からの力にも強い寄棟、入母屋が大多数)。 大きいのはアマを多くし、養蚕のスペースをとるため。あの60度くらいの屋根の勾配は、構造的な要因から生まれたもの。茅葺は水仕舞を考えるとあまり緩い勾配は向かず、合掌構造もまた緩い勾配にはしにくいことから(現に他の地方の合掌構造の茅葺き屋根も似たような勾配となっている)。また、豪雪地なので雪下ろしの労力の低減・限られた材での強度を考えてのこと。 なぜ大型化したかを「大家族制」のためといっているものがあるが、これは50年前の学説だ(白川の一部には存在したみたいだが)。実際のところ、第1には養蚕のスペースをとること、また、豪雪地のため作業場も含め一棟完結にしたほうが有利なのが理由だと思われる。次男家族や雇われ人は付属屋や近隣に住んでいたらしい。「大型」の合掌造りには中二階があることがあり、「大家族」に近い状態のものもあったようだ(しかし「大型」のものは多数ではない)。 ほぼ全ての合掌造は平屋(2階以上は基本的に屋根裏)であるが、わずかに2階建ての物があある(右参照)。昔は逆に軸組がない合掌材が地面まで下りているもの(原始合掌造、ナンマンダブツ小屋)が結構あったらしい。 茅葺きについては最近はトタンで茅葺き屋根ごと覆ったり、茅自体を下ろしてトタン葺きにしているケースがある(別途記述)。 構造の詳細 †白川郷と五箇山の違い †
白川郷はほぼ平入り(茅葺き屋根が見える面)、五箇山は妻入が結構ある(大型の物は平入りであることが多い)。
白川郷は平・妻側に板葺の小さな庇がついているが、五箇山の妻入の合掌は妻側まで本屋根と続けた茅で葺いてある(上 羽馬家参照)。茅がさらに必要となってしまうため、板葺に改造されているものが多い。それでも妻側に入口があるため、若干入母屋風に見える。五箇山のものに下屋庇がついていることは少ない(利賀にはあるものが存在したようだ)。 利賀にあった合掌は平入が多かったため、白川郷に近い。また、利賀から東ではヒラモノを多く使用していた。
白川郷はやたらと分厚く葺く。日本一厚いらしい。なので燻されていた場合は50年以上もったらしい。五箇山は白川郷ほど厚くない。
白川郷は一度に全部葺き替える。大量の茅が一度に必要となる。白川村外からも集めなければ間に合わない。五箇山は分割葺き替え。何年かに分けて葺き替える。未だに各家々で茅場をちゃんと持っているらしい。 各部材について †
チョウナ梁ともいい、チョウナという道具に似ているから命名か? 主に広葉樹の雪で曲がった根本を利用している。広葉樹はまがりの外側に繊維が集まるので合掌材の重量を受ける場所としては理想的。また、1階の天井が高くなることも利点。 小型の合掌造などにはないこともある。また、白川村・荘川村のものには無いものもある。 この部材は合掌造だけではなく、飛騨北部・越中でも使用されている。新潟・山形の豪雪地でも使用されていることがある。
合掌構造なので柱はない。
ミズハリなどが見える。ミズハリは棟押さえの縄・番線を結わえるためのもの。 ミズハリは越中では左右2本で外側に向かって下がっているが(雨が入らないように)、白川郷では1本になっていることが多い。
分布 †富山県内 †基本的に「五箇山地方」:南砺市の内、旧 平・上平(・利賀村)に分布。
富山県内 過去 †最盛期には1200棟ほどの合掌造が存在したと思われる。 上に記述した五箇三村には全村にわたって合掌造が存在した。谷間を望むと全て合掌だったはず。 五箇山から平野へと通じる旧五箇山街道沿いの平野側の城端町(現南砺市)・若杉、福光町(現南砺市)・下小屋。これらは旧街道が廃れたりしたためにその運命を共にした。他に城端町上田、臼中にもあったと思われる。 五箇山の東隣の山田村(現富山市)・八尾町(現富山市)にも合掌造があった。入母屋・寄棟と入り交じっていた。 このうち、八尾町には合計数十棟あった。同じ谷間で十数棟もあったところがあったがダム開発で集落ごと姿を消した。 室牧ダムのある土玉生、小谷、茗ヶ島の各集落。数がまとまっていたのでダム開発が無ければ今でも集落・合掌造りが残っていたかもしれない。 他にも八尾町・山田村では合掌造があった集落がいくつも姿を消した。 富山県内の分布図 △なのが合掌が過去に存在した廃村。小さな○(文字付)は現在存在するところ。 岐阜県内 †調査中… 白川村以外にも荘川村、宮川村にも存在した。 変わっていく合掌 †合掌造りは歴史の流れから生まれたもので、環境が変わっていくとやはり消えていく運命にある(物流の活性化、養蚕業・林業の衰退)。 その合掌の末路といえば以下のことがある。 改造 †蚕をやらなくなると大屋根は必要なくなる。よって、屋根に手を入れることが多い。柱・梁が痛んでいると解体となることが多く、改造して残っている物は多数ではない。
棟を同じ高さにするためか2階が小さいので見分けがつく。
茅を葺きかえるのが大変なので茅の上からトタンをかぶせる。
人が住まなくなって倒れる合掌造りも出てくる。チョンナバリが見えている。 村内に移築 †村内に資料館等として移築することもあった。
村外に移築 †これが結構多い。戦後、数100棟の合掌が全国各地に移築されていった。料亭、旅館、個人宅等々。 営業施設に移築された物は茅の葺き替え等をある程度することが出来、命をつないでいるが、個人宅などに移された物は葺き替えをしなかったりして材が痛み解体というところがでてきている。 数がまとまって移築されているところは以下がある。
白川・五箇山以外の合掌(扠首)構造を持つ古民家 †合掌(扠首)構造の場合、ある程度の屋根勾配にしなければならないのであまり緩い屋根にはならない。茅葺は勾配が急なほうが有利(雨が早く落ち、痛みづらいので)。 つまり、茅葺屋根は必然的に勾配があるので合掌(扠首)構造が大半。葺き替えもしやすいはず。 また、屋根の形の多さは寄棟>入母屋>切妻らしい。切妻はかなりの少数派。
カブト造、ウグイス造などの変わった屋根の形はたいてい養蚕の場所・光取りのため発達。 寄棟がまず基本形で、囲炉裏等の煙抜きのために入母屋に発展し、それがさらに切妻に発展したのだろうか? 高山に移築された建物にそう感じさせる物がある。 外から見るとよくある合掌造りだが、内部を見ると入母屋に見られるような隅合掌の名残がある。 |